石匠について

 日本における石匠の歴史は、古代に優れた石棺が発掘されているところから、すでに古墳時代には、石作部と呼ばれる職能的な人が活動していたと思われ、奈良時代の「正倉院文書」の中には「石丸子人足」の名がみえて、石匠が存在していたことが知られる。
 下って、平安時代には、奈良春日山にある石窟の銘文から、当時の石匠は大寺に所属していた木工大工の下に属し、石匠としての独立性は乏しかったようであった。
 石工が広く社会的に認められた職業となったのは鎌倉時代に入ってからである。この時代の石造物には、石大工と称する銘が刻まれ、なかでも、弘長元年(1261)建立された槃若寺の笠塔婆や大野寺の磨崖仏には、伊派と呼ばれた石工の流派が活躍していた記録が残っている。
 南北時代に入ると、石匠の流派は世襲的要素が確立されたらしく、ことに九州地方では、大分県の延文5年(1360)建立の碑に、石工大工妙室、西蓮の名が見え、さらに、鹿児島県姶良郡の板碑には、大工乗性、小工了密の銘が見え、石匠にもこの頃から徒弟制度が発足したらしい。
 次いで、室町時代には、石工細工の工賃の外に梵字を彫る特技も高く評価され、大乗院寺社雑事記に、五輪塔造立費三貫二十三文の内、梵字彫りに30%の一貫を要したと記せられている。
 江戸時代になると、石匠の社会的地位は更に向上し、特に元禄時代には、それを裏付けるように墓碑や碑の建立はおびただしい数にのぼった。しかし、江戸時代も中期になると、墓碑や碑の造立が個人より講や寄合いで作られるようになったため、像や塔は大型のものが造立されるようになった。また、この時代の石匠の様子を江戸図屏風から眺めると、当時の石屋は、原石を建立地に取りよせて作る方法と、採石場に出向いて作る方法をとり、特に注目すべきは、既製品を売る商売的職人が現われた。